『最後の学徒兵』森口豁

「……井上司令は岡田さんから『なんできみはこんなに大勢(巣鴨へ)引き連れてきたんだ』と言われたんですよ。叱ったんです。それは良くない、ってね。

石垣島事件と田口少尉

石垣島事件1」の当事者に関する書籍です。

この事件は太平洋戦争末期の1945年4月15日に、石垣島海軍警備隊が米兵捕虜2名斬首、1名を刺殺したものです2

戦後、米軍によってこの事件の調査が始まり、本書で取り上げる学徒兵出身者を含む7人が処刑されました。

小樽出身の田口泰正氏は学徒出陣の時期に海軍少尉候補生として徴兵されました。
旅順で訓練を受けた後、石垣島警備隊に派遣されました。

当時、島には陸軍7000名、海軍3000名(海軍警備隊司令井上乙彦大佐)の守備隊が配置されていました。 

1945年4月、撃墜された雷撃器から脱出した米兵航空搭乗員3名が石垣島に不時着し、投降しました。
捕縛した海軍警備隊の井上司令はこれを本部に報告せず、処刑を決定します。

このとき下手人に指定されたのが、田口氏を含む下級将校の3名でした。
捕虜のうち2人は首を切断され、もう1人は数十人がかりで銃剣で突き殺されました。

……あの戦争の中で私たち学徒兵は常に『奴らはやる気がない』と、何かにつけて言われつづけていたのですから……。


度胸や根性をつける目的で、新兵や新人に捕虜を殺害させるという慣行が様々な従軍記録や報告に残っています。

その後、米軍の沖縄上陸に先がけて、石垣島に米軍の爆撃が行われました。
この爆撃と、風土病のマラリアが蔓延したこともあり、兵士600人、住民3800人が死亡しました。
住民の大量死は、動員され栄養・衛生環境が悪化していたためと考えられています。

石垣島 2022年

隠ぺいがばれる

終戦を迎えて、田口氏は同僚の松村らとともに復員しました。
しかし、田口氏には、捕虜を処刑したという事実がつきまといました。

日本は俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)3に加入していませんでした。しかし、海軍警備隊の上層部は、投降した米兵捕虜の殺害が戦争犯罪に該当し、また今後追及される恐れがあることを認識していたようです。

海軍警備隊の井上司令と将校団は、1945年10月、米軍が石垣島に上陸するという知らせを受けて、捕虜処刑に関する書類を焼却し、あわてて十字架の墓を米軍機の墜落現場近辺に建てました。

田口氏は実家に帰ると、捕虜殺害の件を家族に告白しました。

「じつは……、僕、石垣島でアメリカ兵捕虜の首を斬ってきました。上官の命令とはいえ、いずれ警察にひっぱられるかもしれない。僕に実行の罪があることは間違いない。だから逃げ隠れはしたくありません。今僕が逃げたら永久に卑怯者と笑われる……」

石垣島 2022年

逮捕と尋問

昭和22年、水産学校に復学していた田口氏の元に憲兵たちが押しかけ、連行していきました。
事件の発覚はだれかの密告によるものでした。
当時、アメリカ側による戦犯狩りに反感を抱く日本人は多かったものの、田口氏には逃げる意志がなかったようです。

田口氏は、巣鴨プリズンに収監されました。BC級戦争犯罪は捕虜虐待などが対象であり、受命者や下級兵が処罰の対象です。

収監されてから8カ月間は、手紙を書いたり、他の囚人と交流したりする時間がありました。
一方、取り調べや裁判では、暴力(平手打ちや締め技)が用いられ、また甘言で偽りの供述を引き出すことも行われたそうです。

裁判では、捕虜殺害を命じた井上乙彦司令が「酒に酔って覚えていない」と関与を否定しました。
司令がしらを切って自分の罪を逃れようとしたために、罪状は末端の兵にまで及ぶことになりました。

田口氏は、獄中で井上司令とも会話する機会がありました。 

「……それで、二人並んで小便しながら司令に訊いたんだ。すると司令は、僕のほうを向いてね、あんたなんかも捕まったのか、というような顔して。そしてなんて言ったかというと『あんたなんかは自分自身で逃げ道を考えろ』と。

自分の命は自分で守れという言い方なんだよね、僕にいわせるとね……」

窮地に陥った指揮官の振る舞いは様々です。
同時期に、名古屋空襲4における捕虜処刑の罪を問われた岡田資(おかだたすく)中将は、全ての責任をかぶり部下の無罪を主張しました。

「……井上司令は岡田さんから『なんできみはこんなに大勢(巣鴨へ)引き連れてきたんだ』と言われたんですよ。叱ったんです。それは良くない、ってね。

あの人は司令官として全部下の責任をとって五号棟に入ってきているでしょう?」

井上はその後、心を入れ替え、石垣島における米兵捕虜殺害に関するいっさいの責任を認めましたが、すでに手遅れでした。
BC級戦犯裁判は、連合軍による実質的な報復の場となっていました。

裁判という形式こそとってはいるものの、底に流れているのは、目には目を、歯には歯をの報復感情でしかなかった。

石垣島事件の被告45名のうち41名が絞首刑判決を受けました。
その後減刑処置等を経て、最終的に1950年、井上司令と田口氏を含む7名が処刑されました。これが巣鴨プリズンにおける最後の処刑となりました。

死刑が確定してからは、田口氏は仏教や囲碁、短歌を学びました。巣鴨では様々な習い事や学問が行われていました。
また教誨師の田嶋隆純や花山信勝らが、死刑囚を支援しました。

田口氏と井上司令とも、お互いに死刑になってからは、特にわだかまりもなくなったようです。

石垣島 2022年

森口豁
『最後の学徒兵:BC級戦犯・田口泰正の悲劇』
出版社:講談社
刊行年:1993年

  1. 1945年に沖縄県石垣島で起きた「石垣島事件」について知りたい。|レファレンス協同データベース ↩︎
  2. 令和7年度 戦跡めぐり|石垣市 ↩︎
  3. ジュネーヴ諸条約及び追加議定書の主な内容|外務省 ↩︎
  4. 名古屋市における戦災の状況(愛知県)|総務省 ↩︎
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