『釜ヶ崎と福音』本田哲郎

神は貧しく小さくされた者と共に

「あなたの神、主は地面にいるすべての民のなかからあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱(少数)であった」からである

申命記七章6-7

本田氏はカトリック教会の司祭であり、日雇い労働者の支援や、聖書、信仰に関する著作を複数刊行しています。

私はキリスト教徒でありません。(冠婚葬祭や行事をのぞいては)キリスト教を含むいかなる宗教とも、ほぼ無縁の生活を送ってきました。

しかし、キリスト教徒の著作や活動に関して、強く印象に残ったものが多数あります。
ラインホルト・ニーバーやディートリヒ・ボンヘッファー、デズモンド・ドス、シモーヌ・ヴェイユとともに、本田氏もその一人です。

出会い

「神は施しをする者ではなく、施しの必要な弱い人たちのほうにいる」という考えを、本田氏が発見するまでの経緯が描かれています。

著者は釜ヶ崎(大阪市西成区釜ヶ崎、通称あいりん地区)で失業者の雇用支援制度を立ち上げ、活動を行ってきました。

  • 労働者たちやホームレスのほとんどは、仕事を求めていました。
  • 全財産500円の労働者が、自分の朝飯分だけを取り分けて、残りを死んだ知人にお供えするために、両替を要求してきました。

「隣人愛」ということばがあります。
これは身近な人を愛しなさいということではなく、支えや協力を必要としている貧しく小さくされている人の隣人にあなたがなって、その人を大切にしなさいという意味です。

著者は1942年に台湾で生まれ、その後、奄美大島で育ちました。彼はクリスチャンに囲まれて「よい子」に育ちました。
しかし、果たしてそれでいいのかと自問するようになります。

よい子というのは、実は、裏を返すと、顔色を上手にみる子ということです。そして、まわりからよい子を期待されると意識せずによい子を演じてしまう。

神父といえば、それなりの宗教家のはずです。その宗教家の一人である自分が、なんとまあ、人の思惑ばかり、どんなふうに見てもらえるかといった、そんなことを気にしながら、自然と日の当たるところを選んでいる。そんな神父だったわけです。

人の顔色ばかり見てしまうような、人の期待にあわせることしかしない、本心がどこにあるのか自分でも定かではない、ある意味で多重人格な自分。
そして、結果的に自分を偽り、人の目を偽り、神を偽っている自分。

そんなわたしが責任者に選ばれたのですから、宗教組織としてこれはもうダメになって当然だと思ったのです。

キリストにならい、貧しい人びとの中に飛び込まなければという思いから、本田氏は釜ヶ崎に足を運びました。

初めて釜ヶ崎の野宿者たちと対面したとき、著者は恐れを感じました。

よい子症候群のもう1つの特徴は線引きがうまいということです。

……釜ヶ崎の人たちは自分とは関係ないと開き直ったのです。

デトロイト等の工業都市で活動した米国の聖職者ニーバーも、信仰のない社会や、信仰が役に立たなそうな現金な人々の中で、聖職者として何ができるのか苦悩していました。
本田氏も、自分の信仰が、温室の中で培養されているだけの脆弱なものでないか、気になったのではないかと察します。

優等生で、いい大学を出ていて、非常に品行方正な人間に囲まれて育ってきた人物像を連想します。

ある晩の夜回り時、本田氏が恐る恐るホームレスに声をかけて毛布をあげたところ、「おおきに」とお礼を言われました。

わたしはそれまで、当然、信仰をもっているわたしが神様の力を分けてあげるものだと思い込んでいた。
教会でもそんなふうなことしか教えていなかった。

だけど、ほんとうは、違うんじゃないだろうか。

じっさい、わたしには分けてあげる力なんか、なかった。
ほんとうは、あの人を通して神様がわたしを解放してくれたのではないのか。そんな思いが湧き上がってきたのです。

信仰を持つ自分が、いろんな知識を蓄えるチャンスを与えてもらっていた自分が、学問をさせてもらっていた自分が、ある意味で社会的にもそこそこ評価されるような立場の自分が、果たしていままで、だれかの解放につながるような、ほんとうの意味での、心の根本の、救いにつながるようなはたらきをすることができていたのだろうか。

本田氏が聖書を原文で読み直したところ、このような教えがすでに書いてありました。

「あなたの神、主は地面にいるすべての民のなかからあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。
主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。
あなたたちは他のどの民よりも貧弱(少数)であった」からである(申命記七章6-7)

力は、弱っているときにこそ発揮される。
……わたしは弱っているときこそ、力が出るからです
」(コリントの手紙12章9-10)

彼は次のようにまとめます。

神の力、人を生かす力とは、こちらが元気だから、元気を分けてあげられるというようなものではない。
人の痛み、苦しみ、さびしさ、くやしさ、怒り、それがわかる人だからこそ、人を励ますことができる

……強い人が弱い人に恩恵をほどこすのをよしとする風潮になっていきます。……では、何も持っていない人の尊厳はどうなるのか。
……キリスト教とは金持ちの宗教なのかという話になってしまう。
ならば、病気で、貧しくて、年老いていたら、みんなのお荷物になるだけなのか。みんなの哀れみとほどこしの対象でおわりなのか、ということになる。

大切なのは、人の苦しみに共感できることであると言います。

信徒になった釜ヶ崎の人のなかには、かつての仕事仲間、野宿仲間を「あいつら」といって見下す人が少なくありませんでした。

信者になったことで、洗礼を受けたことで、人としての大切な感性をゆがめたり、場合によってはなくしてしまっていたようです。

宗教には限界があります。
イエス・キリスト自身、死ぬまで(死んだ後も)ユダヤ教徒で、一度もクリスチャンになったことはありません。

福音は特定の宗教に縛られません。また、福音は「身をもって」伝えるものです。暗記しておいて能書きをたれたり引用したりというのは、福音を伝えることにはなりません。

イエスは謙遜やへりくだりの模範を示したことはありませんでした。むしろ、低みからいかにして立ち上がるべきかということを示し続けたのでした。

また認識しなければならないのは、「想像し、思いやることはできるが、相手の立場に立つことはできない」ということです。

……小さくなる競争をやってみたとしても、そんなの、自己満足にすぎません。

……あわれむ側は気持ちがいいかもしれないけれど、あわれまれる側のつらさを思おうとしないのです。

 「心の貧しい人たちは、幸いである」とは、貧しい人には神からの力がある、という意味である。

現実に住まいすら失って野宿するほど貧しい状態に置かれている人たちに、「貧しくて幸いですね」なんていったら、「アホか!」といわれるにきまってます。

金持ちや恵まれた者が「自分は小さき人です」とへりくだるような謙遜を、イエスは一度も示したことがありません。
イエスは極貧の家から生まれた子供であり、貧しさがどのようなものか理解していました。

貧しさごっこは意味がない。
相手の立場には立てないことを自覚し、低いところから、むしろこちらが教えてもらうことが重要です。

大切なのはほどこす、分かち合うことではなく、低い場所にいる人が自立できるようにすることです。
神は、信徒たちとではなく、小さい人たちと「いっしょにいる」、と本田氏は言います。

福音

弱いときこそ力が出る、神は弱い人たちを通じてあらわれる、というのが旧約と新約の教えです。

たしかにそういわれてみると、自分が落ち込んでいるとき、便所の百ワット電球みたいに、無駄な明るさの人がそばに寄ってくると、うっとうしいし、ありがた迷惑と感じます。

神が選ぶのは、小さき人々です。かれらだけを救うというのではなく、「その人たちをとおしてすべての人が神のいのちに生かされるようになる、そのための選び」です。

罪人、下等とされる人びとが集まった初期の教会と、現在の教会はまったく異質のものです。

そこそこに満ち足りた者同士が、仲良しごっこをするために教会に集まってきても、それは新しい選びの民の教会とはいえないのです。

初期キリスト教は貧者を訓練して信徒にしたわけではありません。かれら(貧者たち)は初めから信仰に富んでおり、神の国を受け継ぐにふさわしかったのです。

イエスたちの言葉は一貫して、社会的に貧しく弱い人びとにむけられています。

いまの教会に集まっている、たとえばインテリの人たちは、どうころんでも外にほうりだされて、ふみつけられることなどないですよ。
そこそこ社会でふつうに過ごせるんです。

イエスが話しかけている相手は、ほんとうに貧しく小さくされ、社会で箸にも棒にもかからんと軽んじられている人たちです。

聖書はあくまでもイエスキリストについて書かれた本であり、イエスがどのような人物だったかを探す手がかりとして読むべきであると本田氏は言います。

社会的弱者を、かってにわたしたちの善業の道具にするような不遜な祈りはなくしたい。

小さいことは決していいことではない。
貧しさは追求すべきことではない。

どんなものも、すべてを神から預かっているものなのです。

今現実に貧しく小さくされている、その仲間のほんとうの願いを教えてもらいながら、その願いの実現のためにどんな協力がいちばんいいのか、それをさがし、そして行うことがわたしたちの使命であり、目標だということなのです。

信頼

信仰によって、実際に問題を解決するにはどうすればいいか、について検討しています。

 「和解」は唯一の解決策ではありません。

わたしたちは善と悪、正義と正義に反することを和解させようとすべきではないのです。
わたしたちに求められているのは、悪と、正義に反することをしりぞけることです。

中立の立場が常にとれるわけではない。
対立による緊張を、不正のはびこる状態より悪いと思ってはいけません。

こういう人たちは自分を正当化するために、よく「和解」とか「バランス・調和」ということばを使いますが、要するに、波風の立たない、自分にとっての「平穏無事」を願っているだけなのです。

世間が望む平和とは、弱者が我慢し、真理があいまいになり、対立を覆い隠した平和です。
一方、イエスが与えた平和とは、抑圧からの解放をもたらす正義を土台とした平和です。

わたしが来たのは、この地上に平和を投げ与えるためだと思うな。
平和を投げ与えるためではなく、包丁を入れるためにきたのだ。
私が来たのは、「人をその父親から、娘をその母親から、
嫁をそのしゅうとめから」切り分けるためであり、
「こうして、自分の家族の者が敵対するようになる」
(マタイ10:34–36)

本田氏は、問題解決のために以下の心がけをリストアップします。

  • あわれみではなく、苦しみをわかること。
  • 痛みの共感を薄めるようなおもいを退けること。
  • 施し、救援活動には限界がある。その原因が何かを考えざるを得なくなる。
  • 旧約の神やイエスがしばし怒ったように、不正や間違いに対し怒ることは重要なことである。
  • 不正の根源を見極めると、現場の役所や悪人、また富と権力を持つリーダーではなく、社会構造そのものにあることがわかってくる。

釜ヶ崎の野宿者がもっとも求めているのは仕事です。しかし、野宿者が仕事につくにはさまざまな行政障壁が存在します。
そうした社会構造を変えなければ問題を改善することはできません。

抑圧?

人を貶める、攻撃する、否定する、蔑むというのは非常に簡単なことです。
齢を取り、一家言を持つようになれば、だれでも人を攻撃することができます。自分より弱い存在や、反撃してこない存在が必ずいて、だれでもそれを攻撃することができます。
そうした人間の本性を抑え込むのがまた人間の意思ではないかと思います。

本田氏は、抑圧するということは、抑圧する人間にも悪影響を与えると考えます。

人を傷つけるとき、まちがいなく自分自身が人としての尊厳を失い、みずから「人でなし」に変貌していくという強い自覚をもてるようになりたいと思います。

私は、フィジカルを鍛えるとともに、「人を貶めたい、蔑みたい」という人間本来の脆弱性もコントロールできるよう訓練したいと考えています。


本田哲郎
『釜ヶ崎と福音』
出版社:岩波書店
刊行年:2015年

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