- 記録
- 2026年1月29日
本書は、米国の南北戦争に関する通史です。
分量がありますが読みやすい本です。米国ではポピュラーで、1989年にピューリッツァー賞を受賞しています。
南北戦争(1861-1865)(American Civil War)は、米国が最も多くの死傷者を出した戦争であり、その影響は今も残っています。
4年間の戦争で北部約30万人、南部約20万人の死者が発生しました。これは米国のその他すべての戦争を合わせた犠牲よりも多い数です。
個人的な話になりますが、昔、私が自衛隊員だったとき、アメリカ軍に派遣され約2年間勤務したことがあります。
期間中、ゲティスバーグやヴィックスバーグ、チャタヌーガといった南北戦争の様々な古戦場や博物館を訪問することができました。
このような縁から、南北戦争は私自身にとっても思い入れのあるテーマです。

印象に残ったこと
侵略? 反乱?
南北戦争は、南部(サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス)の分離独立に対して、連邦政府と北部諸州がこれを鎮圧することで勃発した戦争です。
合衆国は独立した州からなる連邦制国家ですが、各州の分離については、憲法のどこにも定められていませんでした。
「ある州が、合衆国から抜けたい」と考えたとき、どういう手続が必要なのか、そもそも脱退が可能なのか、そういった決まりごとは存在しませんでした。
南部からみれば、北部は分離独立を阻止しようとする侵略者であり、実際に主戦場の大半は南部側でした。
北部にとっては、アメリカ連合国(南軍)は反乱軍でした。
なぜ合衆国は、南部の独立を阻止しようとしたのでしょうか? それは第一に、合衆国の統一を守るためでした。
北軍が侵略者・あるいは鎮圧者であるということは、戦争を単純な善悪で区分けする視点からは若干不都合な事実です。
南部の独立理由
南部諸州が分離した最大の原因は、州の自治権の維持ですが、これは南北戦争においては、奴隷制の維持とほぼ同じ意味を持っていました。
歴史的事実が示すとおり、南部諸州は当初、州の自治を理由に奴隷制を保持する一方で、連邦政府に対しては、逃亡奴隷を送還させる連邦法の制定を要求していました。
戦争が始まる数十年前から、奴隷制をめぐって南部と北部は対立を繰り返していました。
南北戦争の時代には、奴隷制を正面から支持・肯定するのは国際的に難しくなっていました。
このため、独立の大義名分を奴隷制維持ではなく、州の自治権等、別の理由に置き換えるという言説が、当時から見られました。
ただ、当時の行政文書では正直に奴隷制保持を掲げたものも残っています。
Our position is thoroughly identified with the institution of slavery – the greatest material interest of the world…and a blow at slavery is a blow at commerce and civilization. That blow has been long aimed at the institution, and was at the point of reaching its consummation. There was no choice left us but submission to the mandates of abolition, or a dissolution of the Union, whose principles had been subverted to work out our ruin.
(我々の立場は、奴隷制度――世界最大の物質的利益――と完全に一体化している。…奴隷制度への打撃は、商業と文明への打撃である。その打撃は長らくこの制度に向けられており、まさに完成の域に達しようとしていた。我々に残された選択肢は、奴隷制度廃止の命令に従うか、我々の破滅をもたらすためにその原則が破壊された連邦を解体するかのどちらかしかなかった)
ミシシッピ州の連邦からの離脱を誘発し正当化する直接の原因の宣言(1861年)1

肝心の州の自治をめぐって、開戦後、連合国側では不和が生じます。
南部諸州は、州の自治・自立を建前に合衆国を脱退しました。
ところが北軍からの侵攻に備えて、連合国政府が徴兵制を敷いたため、各州からの非難や抵抗を招きました。
南北戦争が始まるまで
通史をすべて辿っていくのは長いので、ここからは読んでいて記憶に残った部分だけを抜き出します。
北部と南部の分裂
19世紀の米国は、工業化の進んだ北部と、伝統的経済圏の残る南部とに分裂していました。
ニュー・イングランドに代表される北部の起業家や富裕層は、多くがプロテスタントであり、資本主義や金融の発達を歓迎し、また奴隷制を反キリスト的なものと考えました。
かれらの多くはホイッグ党・共和党支持者でした。
北部の産業社会にとって、奴隷制は、自由労働を圧迫する障害でした。
一方、南部の伝統的手工業者、カトリック系のアイルランドおよびドイツ移民、都市部の貧困労働者は、資本主義の拡大に反対していました。
彼らは、米国民が賃金奴隷に堕していくことを危惧しました。
また彼らにとって、奴隷制は野蛮人(すなわち黒人)を導き、白人が繁栄するために不可欠なシステムでした。
彼らの多くは民主党を支持しました。
また、当時の陸軍人の過半数は南部出身者でした。
ただし、支持政党はあくまで一般的な傾向であり、完全に分離していたわけではなかったようです。
北部と南部の民主党は、奴隷制をめぐって分裂していました。
1845年の米墨戦争(メキシコへの侵略戦争)によって、米国はニュー・メキシコとカリフォルニアの広大な土地を手に入れます。
ところが、大規模な西方領土獲得は、奴隷制をめぐる対立をさらに深刻化させました。
新しい領土を自由州にするか奴隷州にするかは、南部と北部双方にとって致命的な問題です。
新たな領土で奴隷制を禁止するということは、南部人が戦って獲得した領土に、自分の財産(奴隷)を持ち込めないことを意味しました。
また、自由州の増加は、南部奴隷州の権力が奪われることと同義でした。
1850年の妥協(Compromise of 1850)2は、カリフォルニアを自由州とし、ニューメキシコ準州(ニューメキシコ、アリゾナ、ユタ州を含む)は奴隷制の有無を定めないというもので、南北双方の不満を一時的に抑えるものでした。
逃亡奴隷法と自警団
南部はごくわずかな例外を除いて州の自治を主張していました。
その例外とは、連邦政府の「逃亡奴隷法(Fugitive Slave Laws)」です。この法は、他州に逃亡した奴隷を取り締まり、所有者が取り戻すための法律でした。
奴隷制廃止主義者や反奴隷制派は、人さらいを増長させる恥ずべき法だとして、この法律を非難しました。
北部の自由黒人と、反奴隷制の白人(奴隷制廃止主義者)たちは、北部各地で自警団を組織し、逃亡奴隷を捕まえようとする連邦保安官や、南部からの工作員を妨害するという運動を展開しました。
当時、反「逃亡奴隷法」の中心地はボストンでした。
ボストン自警委員会(Boston Vigilance Committee)3という地下団体が、逃亡奴隷を支援する代表的な組織でした。
連邦法を破り、逃亡奴隷の脱走を手助けするとうことで、今でいえば犯罪組織です。
多くの逃亡奴隷が、自警団の支援を得てカナダやイギリスに亡命しました。
ただし、1851年には、フィラデルフィア郊外クリスティアナにおいて、自警団・逃亡奴隷と南部人とのあいだで抗争が起こり、奴隷を追跡してきた南部人が殺害される等、奴隷制をめぐる妥協は困難になりつつありました4。
フィリバスター
当時の米国は開拓や領土拡大の流れが盛んでした。
奴隷制と南部の経済を維持するため、政治家たちの一部はカリブ海や中央アメリカへの領土拡大を目指しました。
米国の領土内に奴隷制のエリアが増えれば増えるほど、南部の立場が優位になるからです。
キューバやその他中南米諸国(ニカラグア、ホンジュラスなど)は、米国が征服すべき場所として何度も狙われました。
これらの土地に実際に乗り込む志願兵たちも現れます。
自前の軍をもって他国に不法に侵攻し、革命やクーデターを起こす軍人や冒険家を、フィリバスター(Filibuster)といいます。
この言葉は「海賊・私掠戦」のオランダ語である「Vrijbuiter」(フライバウター)が英語化したものです。
ジョン・クイットマン(John Quitman)やナルシソ・ロペス(Narciso Lopez)、ウィリアム・ウォーカー(William Walker)らが、新たな奴隷州創設を目指しキューバに攻め込みました。
ウィリアム・ウォーカーはバハ・カリフォルニア、ソノラに侵攻した後、ニカラグアを数度占領しましたが、4度目のホンジュラス遠征で英海軍にとらえられ、そのままホンジュラス当局に引き渡され、銃殺されました。
移民排斥運動
米国は移民の国ですが、これまでの歴史で、古い移民と新興移民が何度も衝突を繰り返しています。
ピアース大統領の時代(1853-1857)、アイルランドとドイツから大量の移民が流入し、国民に分裂をもたらしました。
特にアイルランド人は、都市部における犯罪増加の要因として指弾されました。
アイルランド人、ドイツ人移民ともに、大多数がローマ・カトリックです。
既に定住していた英国系プロテスタント達の間に、移民たちがローマ教皇の指揮下にあり、米国をカトリックで乗っ取ろうとしている、という陰謀論が出回りました。
一部のプロテスタント・清教徒の白人たちは、「反奴隷制、反アルコール、反カトリック、反移民」のテーゼを掲げる「Know Nothing」(ノウナッシング)結社を作り出し、特に北部で勢力を拡大します。
ノウナッシング派は反奴隷制の人びとからなるため、共和党(ホイッグ党の後身)はかれらと連携しました。しかしノウナッシングは同時に、民族主義的、排外主義的であるため、協力をよく思わない勢力もありました。
一方アイルランド、ドイツ移民たちは、カトリックが多く、民主党の支持基盤となりました。
ノウナッシング派はやがて、奴隷制をめぐって分裂し、衰退します。
それから
この後、カンザス州を奴隷州にするか自由州にするかをめぐって、さらに暴力化・過激化が進行します。
こちらは次の記事で紹介していきます。

James M. McPherson
『Battle Cry of Freedom: The Civil War Era』
出版社:Oxford University Press
刊行年:1988年
- A Declaration of the Immediate Causes | National Constitution Center ↩︎
- Compromise of 1850 (1850) | National Archives ↩︎
- The 1850 Boston Vigilance Committee | National Park Service ↩︎
- The Christiana Riot | History.com ↩︎