- 記録
- 2026年2月26日
……組織の力などというものは本当に取るに足らぬもので、軍隊でも一般社会と少しも変わらず、人の世話を見る人がやはり統率力のある人だということがわかった。
フィリピンにおける日本軍の様子を、軍属(軍に雇用された文民)の立場から記録した本です。
著者の小松氏は東京農大卒業後、大蔵省・農林省の研究機関で勤務した後、ブタノール(化合物生産の原料や溶媒などに用いられるアルコールの一種)製造の専門家として軍に雇用され、フィリピンに渡った人物です。
本書の舞台となるフィリピンに赴任する前にも、台湾、内地、朝鮮と危険な渡航を行い工場視察等を行っています。
釜山上陸第一歩の印象は、台湾に比べて朝鮮人の内地人に対する感情は冷ややかなものがあると直感した。
『虜人日記』は1974年、小松氏の死後に刊行され、以来、現在も重版されています。
遺族・子孫の方によるWebサイトもあります。
マニラの日本軍
フィリピンでは現地の日本軍と行動を共にし、最終的に捕虜となりました。
小松氏は昭和19年(1944年)1月に陸軍専任嘱託を命ぜられ、フィリピン・マニラに拠点を置く第十四軍司令部付の軍属となりました。
日記では、アメリカ文化にかぶれた歓楽街のようなマニラの様子や、業務で見聞きした陸軍高級将校の様子に関する印象が残されています。
第十四軍参謀長和知中将1については、次のような文を残しています。
当番兵にズボンをはかさせる、エムボタンをかけさせる、靴をはかさせる。まるで昔の殿様然たるものだ。ご自分は扇風機に吹かれている。軍人も閣下になると大したものだ。
マニラは防空壕や陣地が皆無で、軍人、文官はただ飲み食いしていました。内地が困窮している中、単身者の多いマニラは飲む、打つ、買うの生活しかなかったようです。
第十四軍司令官として山下泰文が着任すると、マニラの治安状況や風紀の乱れが目に余るということで、司令部を地方に移してしまいました。
比島の軍人は物質文明に毒されているというので、市内の立派な建物に入っていた司令部関係を一切郊外のマッキンレイに移してしまった。
ネグロスの要塞
既に戦況が悪化していたため、小松氏は第十四軍とともにフィリピン各地を転々とします。
まず向かったのがフィリピン中部、セブ島の対岸に位置するネグロス島です。
ネグロス島の航空要塞に移動しますが、「要塞」とは名ばかりで、ボロボロに破壊された飛行場の草陰に、戦闘機が数機隠されているだけだった。
1944年後半から敵の空襲が多くなり、日本軍機は飛行場で破壊されることが多くなります。
年末からはレイテに向けて特攻機の出撃が始まりました。
本格的に米軍とゲリラによる反攻が始まった時期、小松氏は兵員を使って酒精工場を運営することになりました。ところが、必要な物資は、レイテから飛来する米軍機によって次々と破壊されました。
米軍が上陸する寸前、安全地帯へこの女たち(慰安所の日本人女)を飛行機で運んでしまった。特攻隊の操縦士等、まだ大勢運びきれずにいるのに。
……戦闘第一主義は、いつのまにか変わってしまった。
これがネグロス航空要塞の最期の姿だ。
ジャングルへの逃走
米軍およびフィリピン人ゲリラの攻撃から逃れて、小松氏は、部隊とともに山地を行軍し撤退します。
野草・植物図鑑を見ながら、フィリピンの似た草を見つけては食べられるか試した。
ジャングル生活を通じて、日本軍将兵の様々な姿を見聞します。
卑怯者の軍人たちは危険な仕事を嫌がり、仮病を使う一方で、隊長のご機嫌をとっていました。
切込みに行く者のなかには、捨てた糧食を食べて帰ってくる者や、裏山で遊んでくるだけのものもいました。
「無駄死にするな、生き延びろ」という趣旨の放送が鈴木貫太郎首相によっておこなわれた後は、なおさら命がけの戦闘をする者はいなくなりました。
歴戦の勇士もたくさんいたが、かれらは、「戦い利あらず」の場面に多く際会して、人間の弱点をよく知り尽くしているので、自分の身を処するにあまりにも利口となり、極端な利己主義になっていて、あまりあてにすることができなくなった。
食糧事情が悪化し、部隊も徐々に無秩序化していく様子がわかります。
山中での芋栽培や、切込み芋取(畑に侵入し芋をとってくる部隊)が日課となりました。
糧食のない部隊は解散し、遊兵が畑荒らしや追剥となり、人肉食もおこなわれるようになります。
特攻隊の飛行士は、一緒になって山中をさまよっていました。
ジャングルで身を潜める生活において、若い女性の存在は異様です。
小松氏は、女性を連れまわす一部軍人の姿を強く記憶しています。
兵団の渡辺参謀は妾か専属ガールかしらないが、山の陣地へ女(日本人)を連れ込み、その女のたくさんの荷物を兵隊に担がせ、不平を言う兵隊を殴り倒していた。
虱と赤い虫にたかられる密林生活が続きます。
ある時、衰弱した特殊情報担当の下士官がやってきたので、食事を分けてやったといいます。
東大英文科を出たといって泣いていたこの下士官は、おそらく中野学校二俣分校で教育を受けたゲリラ戦士ではないかと推測します。
……山の生活で各人が生きるためには性格も一変して他人の事一切かまわず、戦友も殺しその肉まで食べるというようなところまで見せつけられた。
そして殺人、強盗などあらゆる非人間的な行為を平気でやるようになり、良心の呵責さえないようになった。……シナのごとく、戦乱飢餓等に常に悩まされている国こそ老子(ママ)の性悪説が生まれたのだという事が理解できる。
敗戦、そして捕虜になる
終戦とともに、特攻・必死を説いていた将校たちが生きる理由をあれこれ話すようになった。
「いや、生きるのも悪くないとおもうよ?」といった感じでしょうか。
それまで、消耗品として扱われてきた怨みから、将校はどこでも非難の的になりがちです。
人の悪い兵隊が「兵隊は日本へ帰すが、将校はたぶん殺されるでしょう」等と驚かすので将校の服や刀を捨てる者もいた。
厳しい状況になると、人間や組織はその本性を隠し切れなくなります。
小松氏は、傷病兵に自決を迫る部隊が、敵が来ると一目散に逃げたのを目撃しました。一方、傷病兵を看護する部隊はよく戦っていたといいます。
戦闘停止に伴い、盗賊化していた炭坑労働者出身の将校が捕らえられ、元兵士からなる盗賊団は皆殺しにされました。
ジャングルで生き延びるための知識や技術についても記録しています。
山では生物学、植物学、栄養科学が非常に役に立ったようです。
収容所の様子
敗戦後、同行していた軍とともに米軍に投降し、著者も捕虜となりました。
米兵について次のように日記に記載しています。
兵隊も学徒出身者が多く、教養も高く、どうひいき目に見ても日本軍より上だと感じた。
2人目の収容所所長は日本・日本人を憎んでおり、待遇が悪化しました。
従軍牧師が聖書を配りに来たので、捕虜たちはこれをタバコの巻紙として使いました。
牧師に対し、なぜこのように待遇が悪いのかと質問すると、米軍にも非キリスト教者がいるから仕方ないとの回答でした。
米国はキリスト教布教の大きなチャンスを失った感がある。
レイテ島の収容所に移送された時、フィリピン人たちに罵詈雑言ではやしたてられ、石を投げつけられました。
レイテ島では土人にひどい扱いをしたに違いないと小松氏は考えました。
土民のあびせる言葉は、皆日本軍が教えた言葉ばかりだ。
自ら教えて、自ら罵倒される。身から出た錆、大東亜共栄圏理念の末路、猛反省の要ありだ。
マニラではレイテ島以上に対日感情が悪化していました。様々なスローガンを唱えながら、行動が伴っていなかったため、日本人は強い恨みを買っている状態でした。
戦争犯罪者として連行された将校や下士官のなかには、日本軍が勝ったとしても、処分すべきような人物もいました。
尾家部隊長等、常に大精神家をもって自認していた人が、いざ引かれるとなると部下将校に罪を転嫁し、大勢の人を引っ張りこむなど、人間の弱さを暴露し非難ごうごうとした。
切り込み隊を指揮し、部下15人を死なせ、自分だけ生還した徳永中尉は、死んだ部下の形見の小指をもっていました。
ところが、死んだはずの部下がその後レイテの病院で発見され、小指も健在だとわかりました。
徳永中尉の持っていた小指はタバコと物々交換されました。
一方、山口正一大佐2は兵隊をよく統率しており、捕虜になっても醜態をさらすことがありませんでした。
ゴマすりなどをしなかったので、同期が将官になっても大佐のままでした。
腐った缶詰にとびついて食べるのは老齢の将校ばかりでした。
捕虜の中には、春画を描いて米兵や看護婦と物々交換する者がいました。
収容所の看守を担当していた黒人の多くは、日本人に親切で、なぜ負けたのかと泣き出す者もいました。
権力とリーダーシップ
様々な従軍記や記録で、捕虜収容所が刑務所化し、牢名主や反社が捕虜たちを牛耳るようになったというエピソードが見られます。
小松氏のいた収容所でも、時間が経過するにつれて、権力構造が変化していきました。
投降した当初は軍隊式の階級社会が維持されていたものの、物々交換で皆の階級章がなくなるころには、人格者、社会的に地位の高い者、腕力のある者がリーダーとして台頭するようになりました。
日本軍の礼儀教育は肩章の星の数に対する礼儀だったので、人間、いや一般社会の礼儀とはだいぶ違っていた。
日本軍隊の大きな過ちの1つだ。
糧秣・炊事関係を牛耳る親分が現れ、勢力を拡大していきました。
また朝鮮人、台湾人は収容所内で結束し、これまでにかれらを酷使していた悪質な日本人をリンチしました。
朝鮮人、台湾人の共通の不平は彼らに対する差別待遇であり、共通に感謝されたことは日本の教育者たちだった。
どのような人物が収容所で指導者になったかについて、小松氏は次のとおり考察しています。
指導者になるのは、例外なしに部下の面倒をよくみる人格者でした。
……組織の力などというものは本当に取るに足らぬもので、軍隊でも一般社会と少しも変わらず、人の世話を見る人がやはり統率力のある人だということがわかった。
日清、日露の役の当時のように将校と兵との間に教養武術、社会的地位に格差のあった時代は良かったが、今日では社会的地位、学識その他すべての点において将校より優れた人物が大勢兵として招集されている。
それらを教養も人間もできていない将校が指揮するのだから、組織の確立している間はまだしも、一度組織が崩れたら収拾がつかなくなるのは当然だ。
日本はあまり人命を粗末にするので、しまいには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気づいてしまった。生物本能を無視したやり方は永続するものではない。
やがて、収容所の親分は、相撲の強い者に特別の食事を与えて強健にさせ、暴力団となって捕虜たちを支配しました。
間もなく、暴力団構成員は全員移送されました。
日本の敗因21
この箇条書きは、『虜人日記』のまとめとして書かれたものです。
この21か条をもとに、元陸軍将校の山本七平が『日本はなぜ敗れるのか』を刊行しています。
- 精神主義・精兵主義
- 物量不足
- 不合理
- 将兵の素質低下
- 精神的に弱い
- 非実用的学問
- 基礎科学の不足
- 電波兵器の劣等
- 克己心の欠如
- 反省しない
- 個人修養がない
- 陸海軍の非協力
- 独りよがりで同情心がない
- 兵器の劣悪を自覚し、敗け癖がついた
- バアーシー海峡の損害と戦意喪失
- 思想的に弱い
- 厭戦感情
- 日本文化の未確立
- 人命軽視
- 普遍性のない日本文化
- 生物学的常識が指導者に欠如
小松真一
『虜人日記』
出版社:筑摩書房
刊行年:1975年
- 和知鷹二 – Wikipedia ↩︎
- マニラで絞首刑の情報有 ↩︎