特攻兵器蛟龍艇長の物語: 玉音放送下の特殊潜航艇出撃-宗像基

「特攻兵器に乗っていたからこそ、天皇の命令というのにこだわっている」

これは、特攻兵器の艇長を務めた人物の回想録です。

タイトルとなっている「蛟龍」がその特攻兵器です。
蛟龍は戦争末期に開発された小型の潜水艦ですが、広く知られている「零戦」等と比べれば知名度はあまり高くありません。
この特攻兵器に関する本を探していたところ、本書を見つけました。

海軍軍人を志すまで

著者の宗像氏は、台湾で生まれ、クリスチャン軍人として海軍兵学校に入校し、特攻兵器蛟龍(コウリュウ)の艇長となった方です。

台湾出身の日本人であること、またクリスチャン(キリスト教徒)の家に生まれたことから、当時の日本社会で様々な差別を経験しました。植民地出身者、キリスト教徒、どちらも当時の日本(今も?)では少数派です。
子供時代の著者は、広島の実家に帰るたびに「湾生(わんせい)」(台湾生まれの意味)と子供たちに中国人呼ばわりされ、からかわれました。

台湾は朝鮮ほどには、植民地統治に対する反感がなく、目立った反対運動もありませんでした。
それでも、現地では日本人と台湾人との間に社会的な差別があったといいます。
優秀な学校に入れるのは日本人と、富裕な台湾人子弟のみでした。また、台湾人や原住民は全員日本名を与えられ、日本語を話すよう徹底されていました。
台湾や韓国のほうが、皇民化政策が厳格に行われていました。

著者の家はクリスチャンで、著者もクリスチャンとして教会に通う信徒でしたが、学校の配属将校に「天皇か神かどっちを選ぶのか」などと恫喝されることがありました。

この時代、天皇が神であった日本では、クリスチャンは「スパイ」「非国民」と言われていた。

戦前のキリスト教諸派は、一部を除いて政府に協力していましたが、著者が指摘するように、実際にはそれは政治的中立ではなく服従といえるものです。

彼らは「政治に関わるべきではない」と言いながら、政治に流され、協力していることに気づいていないのだ。

……そのころは徹底した天皇制教育を受けていたから、天皇は別格、神社は宗教ではないということを、いわば「常識」としてたたきこまれていた。

大日本帝国では、信教の自由と神道とを両立させるため、国家の管轄する神社は、一般的な宗教(教派神道、仏教、キリスト教等)から区別されていました。
行政としては、明治33年に内務省に神社局と宗教局が設置され、それぞれ別に管理されることになりました1

明治33年の勅令(天皇が議会に拠らず直接発した命令)第百六十三号・内務省官制中改正追加2には、次のように神社局の任務が規定されています。

第四条の次に左の一条を加ふ

第四条の二 神社局に於ては左の事務を掌る

一 神宮、官國弊社、府県郷村社、招魂社其の他総て神社に関する事項

二 神官及神職に関する事項

大日本帝国憲法は、天皇を国家の主権かつ神聖な存在と規定していました。一方、不平等条約の解消などの観点から、国内における宗教、特にキリスト教信仰の自由を保障しなければなりませんでした。
その解決策がこうした神社非宗教論に基づく政策ですが、世間ではやはりキリスト教徒は色眼鏡で見られていたようです。

世の中の少数派として爪はじきにあったものの、著者は最終的に、軍人になることを志すようになりました。クリスチャン軍人として差別を見返すために、当時、憧れの的であった海軍兵学校を受験し、合格しました。
複雑な心理ですが、著者はこれを「すり寄り」、「迎合」であったと回顧します。

人は差別されると、闘うか、逃げるか、すり寄るか、いずれかの道をとる。私は「立派なクリスチャン軍人になる」という言い方で、情けないことに三番目の道を選んだのだ。

特攻艇の指揮官へ

海軍兵学校へは、日米開戦直前の1941年12月に入校しました。通常、中学4年あるいは5年で入校し、4年間の教育を受けるところ、当時は事態が切迫していたため、教育課程は3年間に短縮されていました。その後さらに2年半程度にまで切り詰められました。

海軍兵学校の教育では、5分前の精神が徹底されました。また精神教育つまり訓育の中心となったのが軍人勅諭と五省でした。
五省は「至誠に悖るなかりしか……」で始まる5か条のスローガンで、私も自衛隊時代に少し触れた記憶があります。

訓育や躾教育による精神教育が一段落すると、実技が始まりました。
著者が当時のカリキュラムがどのようなものだったかを書き残してくれています。

  • 実技
    • カッター訓練
    • 剣道
    • 柔道
    • 陸戦訓練
    • 信号訓練
    • 軍歌演習
  • 学術教育
    • 普通学部
      • 数学科
      • 理科学科
      • 文学科
      • 外国語科
    • 兵学部
      • 運用科
      • 航海科
      • 砲術科
      • 水雷科
      • 通信科
      • 航空科等9科

また、教練と体育も重視されていた。しかし、実弾射撃や陸上戦闘の訓練は、海軍では陸戦隊というのが評価されていなかったのか、あまり重んじられなかった。

著者が卒業し、任官する頃には、戦争は既に末期でした。卒業後すぐに特殊潜航艇である甲標的・丁型「蛟竜」の艇長となり、江田島近郊の秘密基地で訓練を受けることになります。

蛟竜は小型の潜水艦であり、操縦には潜水艦艦長レベルの能力が必要ですが、配属されたのは予科練出身の若者や予備学生、そして兵学校を出たばかりの、著者のような少尉・中尉でした。

一連の水上特攻兵器である回天、震洋、甲標的・丙型、蛟竜、海龍、伏龍等は、訓練中に多くの事故死者を出しています。

特攻要員という極限状況の中でも、若者はどうにか適応していきます。

繰り返しこういう教育がやられる中で、潜航艇の搭乗員たちは「死ねばいいんだろ!」という気になっていた。
「オレが死ねば日本は勝つ」とも思っていた。しかしこれは、半ばヤケになっている気分でもあった。

潜水艦は元来、日本海軍では補助的な役割しか与えられていませんでした。しかし、主要な艦船が消滅した1945年になると、「特殊潜航艇こそ日本海軍の柱」だともてはやされるようになりました。
これは敗戦直前のドイツが、存在しない秘密兵器を待ち望んでいた状況を連想させます。

1945年7月には、軍港都市である呉にも大規模な空襲が行われ、停泊していた軍艦が次々と破壊されました。蛟竜は稼働できる場合は出航し、水底に潜航することでどうにか難を逃れました。

既に特攻兵器が勝敗に影響を与るような段階ではありませんでした。

傑作なのは、あの海軍士官の象徴ともいえる短剣だ。このころ支給されたのは、鉄不足のため、竹に銀紙を巻いたものである。いわゆる「竹みつ」だ。
もはや、日本には戦争を継続する力は、まったく残っていなかったのである。

戦争が終わった時、兵学校同期の3分の1が死亡していました。1期上の先輩になると半数が死亡したといいます。
敗戦直後に自決した者、処理作業中に事故死した者も多数ありました。

戦後

日本が戦争に負け、軍が解体されたことで著者は道を見失いましたが、復員船の船長や米軍関係の仕事など転々とする中、教会で聞いた牧師の話をきっかけに信仰を取り戻し、神学校、現在の東京神学大学に入りました。

このとき家庭教師のアルバイトとして勉強を教えた生徒に田川健三がおり、後に著名な神学者になりました。
田川健三は『イエスという男』という本が有名ですが、私はまだ読んでいません。

それから、著者はブラジルに牧師として派遣され20年程勤務しました。

著者は、人は無条件で神に赦されている、恵みを受けているとする考え方を持っています。
「信仰しないものは救われない」、「〇〇しなければ救われない」という考え方には反対します。

しかし、かつての最高指揮官であった天皇に対しては別です。
軍国少年として育ち、特攻兵器の指揮官になった立場だからこそ、戦後の責任回避に対して怒りを覚えたといいます。

すなわち、最高指揮官であった昭和天皇が、自分は命じていないと責任逃れをしたことが活動の原点となったのです。

戦争や国家に関する自分たちの無知もあったが、天皇が私たちをだましたという思い、そして、天皇自身があの戦争に対して無責任を決め込んだことが、私の怒りとなった。

私は天皇の命令で戦争に行ったのだ。それを今さら命令をした覚えがないというのだから、これだけは許せないという怒りが、だんだんと強まってきた。

……私は特攻兵器に乗っていたからこそ、天皇の命令というのにこだわっているのだ。これが私の原点ともなっている。

信奉していた分だけ、裏切られた、見捨てられたという憎しみが倍増したのだと思います。


宗像基
『特攻兵器蛟龍艇長の物語:玉音放送下の特殊潜航艇出撃』
出版社:社会批評社
刊行年:2007年

  1. https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317735.htm ↩︎
  2. https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000018615&ID=&TYPE= ↩︎
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